ベトナム

【ベトナム世界遺産】胡朝の城塞(ホー王朝)とは?謎多き幻の王朝の歴史・行き方・見どころを徹底解説!

2025年6月23日

【ベトナム世界遺産】胡朝の城塞(ホー王朝)とは?謎多き幻の王朝の歴史・行き方・見どころを徹底解説!

今回は、ベトナム中部・タインホア省にある世界遺産「胡朝の城塞(ホー王朝)」を訪れてきました!

ベトナムの世界遺産といえば、ハロン湾やホイアンなどが有名ですが、
この胡朝の城塞については「初めて聞いた」という方も多いのではないでしょうか?

胡朝(ホー王朝)は、わずか1400年〜1407年の7年間で歴史から姿を消した、謎多き幻の王朝です。
この記事では、現地での訪問・取材をもとに、その歴史背景・アクセス方法・見どころを詳しくご紹介します!

こんな方におすすめ

  • ベトナムの世界遺産について知りたい
  • 胡朝の城塞(ホー王朝)の歴史・行き方・見どころを知りたい
  • 実際に胡朝の城塞(ホー王朝)に行った方のレビューを読みたい
  • タインホアに行くので、ぜひ胡朝の城塞(ホー王朝)に行ってみたい
  • ベトナムの歴史に興味がある

この場所の現地映像はこちらでご覧いただけます!

胡朝の城塞へのアクセス

  • タインホア駅(Thanh Hóa駅)から:車で約1時間(約44km)
  • サムソンビーチから:車で1時間半(約71km)
  • ハノイから:電車または車で3〜4時間ほど(ローカル旅の中継地にも◎)
長時間にわたり回っていただいたドライバーさんには感謝です
人生ゆたか
人生ゆたか

今回はサムソンビーチからGrabバイクのドライバーさんに、胡朝の城塞までの往復送迎と現地内の移動もお願いしました。暑さや距離もあるので、これは本当に助かりました。往復3時間のバイク移動、景色は最高だったんですが、いや〜、長かった…。

胡朝の城塞の概要

  • ベトナム語名:Thành nhà Hồ(タン・ニャー・ホー)
  • 英語表記:Citadel of the Hồ Dynasty
  • 登録年:2011年にユネスコ世界文化遺産に登録
  • 所在地:タインホア省ヴィンロク県(Thanh Hóa Province, Vĩnh Lộc District)
  • 建造年:1398年(胡季犛〈ホー・クイリー〉により築かれた)
  • 住所:Vĩnh Tiến, Vĩnh Lộc District, Thanh Hoa, ベトナム
  • 営業時間:7時30分~18時00分
  • チケット:40,000VND(2024年4月時点)
  • 資料館:南門右手にあります

チケットカウンター

チケットカウンターはゲート手前にあります。

大人一名 40,000VND(約245円)です。

資料館

資料館は南門を正面から見て、右手にあります。発掘品や復元図などが展示されています。

胡朝の城塞の大きさ・規模|🏃‍♂️ 一周する場合の参考

胡朝の城塞(Hồ Dynasty Citadel)の外周は、ほぼ正方形に近い構造(完全な正方形ではない)で、おおよそ3.5km(=3,500メートル)前後です。

🔍 この規模は、当時の王宮としてはアジア最大級クラスです。

項目規模
南北の長さ約883m
東西の長さ約880m
外周約3.5km
城壁の高さ最大 7.5m ※南門の部分が最も高く、高さ約7〜7.5m
壁の厚み最大 約5m
面積約80万㎡(東京ドーム約17個分)
人生ゆたか
人生ゆたか

驚くべきは、これを15世紀初頭に、モルタルなしで積み上げたという事実です。

一般的な「日本の城」との比較

項目胡朝の城塞姫路城(参考)
築造年1397年1601年頃
主素材石(巨大な石垣+木造建築)木造(石垣+天守)
外周約3.5km約1.5km前後
用途王宮・政庁・儀式政治・軍事拠点
天守なし(開放的な平地型)あり(高層構造)

つまり、天守のような「高い象徴建築」はなかったけれど、王宮都市としての規模や堅牢さは圧倒的であり、モルタルなしで積んだ巨大石構造は、日本や中国にも類を見ない高度な技術でした。

胡朝の城塞の歴史的背景と王朝の年表

胡季犛(ホー・クイリー)のイメージ写真

胡朝の城塞は1397年に建設が始まり、3年後の1400年には完成。その後、この地を首都として王朝が成立しました。
胡朝は短命で、1407年に明の侵攻によりわずか7年で滅亡しました。以下が年表です。

年代出来事
城塞の建造:1397年(王朝成立前)胡季犛(ホー・クイリー)が胡朝の城塞(西都≒後のタインホア)を建造開始。当時はまだ王には即位していなかった。胡季犛は1397年当時、陳朝の実質的な最高権力者(大臣・権臣)でした。
遷都(城塞が首都となる):1398年ごろ城塞がほぼ完成し、事実上の政治・軍事拠点として機能。陳朝の皇帝(陳朝第14代)がこの城に遷都(西都・タイドー=Tây Đô)。陳朝の政務もこの地で行われていたとされる。実質的に胡氏の掌握が強まる。胡季犛は陳朝の皇帝をこの地に遷都させました。
陳朝の「西都政権」期。胡季犛の影の支配者としての準備期間:1398〜1400年の「空白の2年」胡季犛はいきなり自分が皇帝になるのではなく、陳朝皇帝を連れて西都に移し、徐々に支配基盤と正統性を固め、政治・軍事・人事を掌握してから1400年に即位した、という流れ。胡季犛が“表向きは陳朝の重臣”としてふるまいながら、実質的な政権移行を準備した移行期間だった。城が完成した1398年から、正式な即位までの2年間は、まさに「静かなる乗っ取りの時」。
王朝の期間:1400年〜1407年(※実質的な支配は1398年から)胡季犛は着実に政権の実権を握り、1400年、胡季犛が正式に皇帝の座に就き、陳朝を廃して胡朝を建国。自ら即位し、胡朝(ホー朝Hồ dynasty)が正式に成立。この年が正式な建国年。
王朝の寿命は短く、1407年に滅亡(明の侵攻による)1407年明(中国)の軍によって王朝が滅ぼされる。わずか7年で胡朝滅亡。わずか7年で明軍により滅亡したため、「謎多き王朝」としても知られる。

なぜタインホアに都を築いたのか?

  • 胡季犛の地盤(出身地)だったから
    胡季犛(Hồ Quý Ly)は、もともとタインホア出身(またはその周辺地域にルーツを持つ)とされ、地縁・人脈に強い基盤がありました。彼にとってこの地は政治的に安全で忠誠心の高い地域だったため、反乱などに対するリスクが低かった。
  • 軍事・防衛上の利点
    タインホアは、山と川に囲まれた天然の要塞のような地形で、防御に優れていました。特に胡朝の都が置かれた場所(現在のヴィンロン)は、マーロン川沿いの平野と山地の間に位置し、攻めにくく守りやすい。
  • 旧都タンロン(ハノイ)から距離を置きたかった
    胡季犛は、陳朝を事実上乗っ取って王朝を開いた人物。そのため、旧王朝の影響が色濃く残るタンロン(昇龍=東都)を避け、新たな権威の象徴として都を移したと考えられます。政治的正統性を強調し、新体制への移行を明確にするための象徴的な遷都でした。
  • 経済・流通上も一定のポテンシャルがあった
    タインホアは古くから中部と北部をつなぐ要衝で、物流・人の移動が多い場所でもありました。海や川に近く、南北交通の中継点として機能しやすい土地だったとも言えます。

当時の名称はなぜ「西都」?(タンロンから見て南では?)

「西都・タイドー(Tây Đô)」が「西の都」と呼ばれた理由は、当時の王朝(陳朝)がそれを「東都」に対する“西側の都”と位置づけたためです。もともと、陳朝の都はタンロン(昇龍)=現在のハノイにあり、これは当時「東都(Đông Đô)」と呼ばれていました。

一方、後に胡朝を開く胡季犛(Hồ Quý Ly)が権力を握る過程で、戦略的・政治的理由から都を現在のタインホア省ヴィンロン地区に遷都。その新都が「タイドー(Tây Đô)」=西の都と呼ばれたのですが、あれ?実際にはタンロン(今のハノイ)から見て、タインホアは南では?と思いますよね。ただ、地理的にタンロンより西南西の方向にあることから。旧都タンロン(東都)との対比で、象徴的に「西都」と名づけられたようです。

人生ゆたか
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このように東西の対比は、単なる方角ではなく、政治的・象徴的な意味合いが強いです。中国やベトナムの歴史では、「東都・西都」という呼称が使われることは比較的多く、「二都制」的な発想が背景にあることもあります。

胡朝の城塞の建築的特徴

  • 石造建築の最高峰:2.5m×1.5m×1m超の巨大な石ブロックを使って、モルタルなしで組み上げた技術を使っている。
  • 東西南北に設けられたアーチ型の門が有名。特に南門(正門)は最も保存状態が良い。
  • 全体で約870m四方の巨大な城壁に囲まれている。
  • 城壁と門はほぼ完全な形で現存し、耐震性や設計の巧みさが評価されている。
  • 使用されている石材の組み方が非常に精密で、石の積み上げだけでこの高さを実現しており、驚くべきはこれを15世紀初頭にモルタルを使わずに積まれているという点。
  • 使用石材:巨大な石ブロック(2m超えのものも多数)

なぜ「石」で築かれたのか?

  • 永続性・権威の象徴として
    石は木や土よりも耐久性が高く、永遠性の象徴。胡季犛は新王朝を築くにあたり、「陳朝とは異なる、強固で永続的な国家体制」を示すために石造りの都城を築いたと考えられます。特に中国の明王朝に対抗するため、“文明的・先進的な国家である”ことを誇示する狙いも。
  • 防衛力の強化
    石造の城壁や門は、木製・土製のものより攻められにくく、火にも強い。胡朝の建国当初から、国内の不安定さや明による侵略のリスクを強く意識していたため、実戦的な防御施設としての意味も大きかった。
  • 中国文明の模倣と超越を意識
    胡季犛は儒教・科挙制度の導入など、中国化を強く推進していた人物。都市の設計も、中国の都城制度をモデルにしており、石造建築は漢・唐・明などの中国王朝の威厳ある都市づくりを模倣しつつ、それを越えようとする意図も読み取れます。
  • 地理的・技術的に可能だった
    タインホア周辺は、良質な石材が採れる地形で、実際に胡朝の城壁には現地で産出された石灰岩が使用されています。加えて、胡朝には高度な石工技術(特に巨大石の切断・運搬・組立)が存在していたことも、物理的な実現を後押ししました。
人生ゆたか
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城塞のスケールに、まず圧倒されました。高さ7メートルの石壁に囲まれた広さは、およそ東京ドーム17個分。日本のお城のような天守はありませんが、600年経っても崩れない石の城壁が、その志の大きさを物語っています。

胡朝の城塞の世界遺産としての価値は?

  • 東南アジアの石造都市防衛構造物の中で最も大規模なものの一つ
  • 東アジアと東南アジアの建築技術の融合の証
  • 建築・都市計画・軍事設計の面で独創的と評価されている。
  • この城塞は当時としては極めて高度な建築技術によって作られており、現在もその威容を誇っている。

胡朝の城塞の見どころは?

  • 一番有名なのは南門(Cổng Nam):巨大なアーチ門と石壁のダイナミックな景観・構造美は必撮ポイント
  • 周囲の田園風景とともに広がる壮大な景観も魅力的
  • 現地には資料館もあり、発掘品や復元図などが展示されている
  • 現地の静けさや田園の風景との対比で「時間が止まった遺跡」のような感覚を味わえる

胡朝の城塞の四方の門の特徴について

胡朝の城塞(Thành nhà Hồ / Hồ Dynasty Citadel)には、東西南北の4つの門(Cổng)があります。それぞれは城壁の中央に位置し、内部と外部を結ぶ通路として設計されていましたが、現存状態や規模、保存度合いに違いがあります。

ただし、南門以外は保存状態が良くないため、観光や資料での露出はほとんど南門中心です。

方角ベトナム語/読み方(参考)特徴現在の保存状態・見どころ
🟥 南門Cổng Nam/コン・ナム正門/最大規模のアーチ門最も保存状態が良く、観光の中心スポット。巨大な石ブロックを使用した三連アーチ型構造で、高さ・幅ともに圧倒的なスケール。
🟦 北門Cổng Bắc/コン・バック裏門一部石材が残るが、崩壊が進んでおり構造はやや不明瞭。南門の簡素版と考えられる。
🟩 東門Cổng Đông/コン・ドン側門/防衛目的が強め保存状態は部分的。アーチ構造が崩れかけているが、一部は修復された形跡も。
🟨 西門Cổng Tây/コン・タイ側門/補給・連絡路東門と同様に、遺構としての面影は残るものの保存状態はやや劣る。周囲の草原に溶け込むような静かな雰囲気。

南門(Cổng Nam)が注目される理由

特に南門(Cổng Nam)が注目される理由

  • 三連アーチ構造という壮大な設計(中央が高く、両脇が低い)
  • 4つある城門(東・西・南・北)の中で最大かつ最も保存状態が良い門
  • 石ブロックの積み上げが美しく保存状態が極めて良い
  • ユネスコの登録写真や観光パンフレットなどでも、象徴的に扱われるシンボル的存在です。

南門の石畳について

南門の前後には、巨大な石を敷き詰めた石畳の道があります。長さはおよそ 150m〜200m 程度にわたり、巨大な四角形の石がまるでパズルのようにきれいに並んでいます。この石畳は王宮への正面通路儀式や軍事行進の経路として使われていたと考えられています。

すごいのは、この石畳の水平性と排水性が極めて高いこと。600年以上経った今でも凹凸が少なく、歩きやすいことです。

胡朝の城塞の内部について

まさに「胡朝の城塞」の魅力は、遺跡でありながらいまを生きる人々の場所でもあるという点にあります。

現在の城内は完全に開けた平野部

現在は建物自体はほとんど残っておらず、近隣住民の日常生活の一部になっています。特に南門を抜けると広大な田園風景が広がっており、地元の人たちが自転車や徒歩で行き交っています。以下が内訳です。

  • 村人の通り道
  • 学生の通学路
  • 家畜の放牧地
  • 水田や畑

しかし、発掘調査で地中に礎石やレンガ宮殿建築の跡や青磁の陶器片などが見つかっています。

学生が行き交う理由は?

周囲に学校が複数あり、通学路として機能してるためです。南門から北へ抜けるルートが最短経路となっており、地元の子どもたちがこの遺跡を日常的に通っています。 まさに「世界遺産の中を通学する」という特別な風景です。

人生ゆたか
人生ゆたか

城塞の中に足を踏み入れると、広がっていたのは、なんと水田と通学路。子どもたちが笑いながら遺跡の中を歩いていて、「ここ、世界遺産だよな……?」と思わずつぶやくほどの、不思議な日常の風景がありました。

かつては王が行進していた石畳の道も、今では自転車に乗ったおばあちゃんの通り道。歴史の上を、人々の暮らしが流れている、そんな時間の層を感じられる場所でした。

城塞はかつての都?昔に胡朝の城塞内にあったものとは?

この広大な城塞の中に、かつて王の宮殿がありました。しかも王朝の中枢が高さ7メートルの石壁に囲まれていたのです。内部には、皇帝の居所、官庁、儀式の祭壇などが並んでいたと考えられています。具体的には以下。

  • 王城(皇帝の宮殿)
    中心部には皇帝の宮殿(皇居)が築かれていました。木造建築で、現在は基礎部分や礎石のみが残っている状態です。南門からまっすぐ北に進むと、かつての王宮跡(Đàn Nam GiaoやĐiện Kính Thiênなど)があったとされています。
  • 官庁・住居・祈祷所など
    城内には以下のような主要施設が配置されていたと考えられています。皇帝の居所と政庁、官僚の詰所、軍事司令所、儀式用の祭壇(特に「南郊壇(Đàn Nam Giao)」と呼ばれる祭壇遺構が有名)、蓄水・農耕エリア

今はその姿を残していませんが、土の下には礎石や焼き物が眠っており、かつてここが国の中心だったことを物語っています。

胡朝の城は大きかったのか?宮殿・建物の高さは?

王宮は、意外と低い造りだったと言われています。高さで威圧するより、広がりと堅牢さで国を守る。胡朝は、そんな“地に足のついた王都”を目指していたのかもしれません。

中央の宮殿などは基本的に木造の低層建築(平屋〜2階建て)と推定されています。つまり、日本の「天守閣」や中国の「楼閣」のような高層建築は存在していなかったようです。高層ではなく、地面に根ざした王都で、儀式や政務、儒教的秩序を重んじる配置だったのかもしれません。

発掘調査で見つかった礎石や焼き物の位置・サイズから、王宮建築の高さはそれほどではなく、代わりに石壁で都市全体を守る造り
ということがわかっています。

アメリカの文化保存大使基金による南門保存プロジェクト

アメリカの「文化保存大使基金(Ambassador's Fund for Cultural Preservation, AFCP)」は、2018年12月から2020年6月にかけて、南門(Cổng Nam)保存プロジェクトに対し USD 92,500を支援しました。その支援によって南門の保存修復プロジェクトは成功裏に終わったということです。

この支援は、ユネスコ世界遺産である胡朝の城塞南門を構造的・美観的に保全するための重要な動きであり、老朽化した石材の補修、ドーム天井の安定化などに用いられました。

プロジェクトの概要

  • 支援額:USD 92,500
  • 対象:南門のアーチ部のドーム構造および前面の石材保全
  • 期間:支援は2018年12月に開始され、2020年6月ごろ完了
  • 主催者:AFCP とベトナム文化保存機関、担当専門家による合同チーム

📸 胡朝の城塞の撮影・訪問時のポイント

  • 南門は午前中に順光で撮影するのが理想(東から太陽が昇る)
  • 東西門は草地に埋もれるような雰囲気なので、静寂や荒廃美を撮るのに向いています
  • 北門はややアクセスしづらい場所にありますが、踏破感が出せるスポットです
  • 一部未舗装・草地もあるため、完全な周回ルートは整備されていない箇所あり
  • 一周するなら午前の涼しい時間帯がおすすめ

胡朝はなぜ長続きしなかったのか?

胡朝は、胡季犛という一人の天才によって築かれた国家です。
胡季犛は学問と技術に通じた改革者であり、城塞の建設も儒教的秩序を意識した合理的な都市設計とされます。実際に、モルタルなしで巨大な石を積む技術は、当時としては異例の高度さ。技術者・測量士・職人の力を総動員し、非常に短期間で完成させたと見られています。

しかし――
民心・軍事・外交を軽視しすぎた結果、国家としての“地力”を欠き、長期的な体制維持はできませんでした

  • 政治的正統性の欠如と支持基盤の弱さ
    胡季犛は陳朝の高官からクーデターによって皇帝となった「簒奪者」。正統性に乏しく、貴族層や民衆の支持を十分に得られなかった。
  • 急進的すぎた改革と民衆の反発
    税制や制度改革は理念としては優れていたが、急進的すぎて庶民の生活を圧迫。不満を招き、支持を失った。
  • 外交と軍事の軽視、そして明の侵攻
    対外政策や軍備の準備が不十分だったため、1406年の明の侵攻に対抗できず、胡朝はわずか1年で崩壊。胡季犛は息子とともに捕らえられ、中国に連行された。
人生ゆたか
人生ゆたか

技術は国を築けても、政(まつりごと)は民心がなければ続かない。胡朝の城塞が今も残り、胡朝という国が残らなかったのは、その違いをまざまざと教えてくれているのかもしれません。歴史って、技術だけでは動かないという、人間くさい部分が深いですね。

実際の様子はこちらのYouTube動画でご覧いただけます!

まとめ

1398年、巨大な石を積み上げて築かれたこの城塞は、わずか10年足らずで消え「幻の王朝」と呼ばれました。

宮殿も兵舎も、いまは何も残っていませんが、子どもたちが遺跡を通学し、村人が自転車で田んぼ道を進むなど、600年の時を超えて、人々の暮らしが流れています。

世界遺産というと“過去の遺産”を思い浮かべがちですが、そこには、今を生きる人々の暮らしや営みが息づいていました。

取材:2024年4月12日
公開:2025年6月23日

  • この記事を書いた人

人生ゆたか

株式会社リッチメーカー代表取締役。元アマボクサー→営業会社→世界一周'13〜14→ウェブ業界10年'14〜24(内8年ベトナムハノイ駐在'16〜24、ベトナム現地法人設立&元代表、ITオフショア経営、ビル運営、フリーペーパー創刊、オウンドメディア運営等)→ 世界二周目'24→ 株式会社リッチメーカー創業。旅した国/57カ国

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